「子ども連れ去り」「実子誘拐」刑法224条(未成年者略取・誘拐罪)に該当すると刑事告訴をしても、警察は告訴状を受理しますが、起訴はほぼしません。刑事告訴をした当事者がネットなどで警察の怠慢だというポストをよく見ますが・・

なぜ警察、検察は動かないか

それは日本は「裁判で有罪を取れない事件は起訴しない」起訴しても連れ去り側の代理人弁護士が出てきて無罪だと主張するからです。日本の検察官が起訴便宜主義を行使して起訴しないのは、公判を維持出来ない」と主張し、逆に被害者の権利・財貨をないがしろにしています。

負けたら検察官の将来に暗雲がたれ込みます。要は、自分の自己保全のために行使していると確信しています。ドイツの起訴法定主義とは違います。警察が告訴状を受理しても簡単な事情聴取で済ませるのは、民事でカタがつかないから次は刑事でというものは対応しません。

ドイツにおける起訴法定主義   内田一郎 早大教授 著

『ドイツにおける起訴法定主義』紀要論文 DepartmentarlBuiletinPeper(1)公開日2008年4月23日 著者内田一郎 書誌情報 早稲田大学 巻40号2 P21-45 発行日1965-3-20

一 序言 

起訴法定主義(合法主義)とは、検察官が犯罪成立し且つ訴訟条件が完備するものと認めるときは、必ず公訴を提 起すべき義務を負うものをいい、起訴便宜主義とは、検察官が犯罪成立し且つ訴訟条件が完備するものと認めた場合 でも、公益上適当なときは、公訴を提起しないことができるとするものをいうのである。 

ドイッでは、一八七七年の帝国刑事訴訟法第一五二条第二項で、『検事局は、法律に別段の定めある場合を除いて、 裁判上可罰的にして訴追可能な一切の行為につき、十分な事実上の根拠の存するかぎり、公訴を提起すべき義務を負 う』と規定して、初めて、起訴法定主義を採用して以来、今日まで、一貫して、これを維持しているのである。そし て、当初、その例外はきわめて僅かなものであつたのであるが、漸次、拡張されるに至つているのである。 

二 起訴法定主義 

ドイッの立法事業が検察制度を継受するについては、主としてフランスの模範に従つたのであるが、検事局に対す る裁判所の独立を擁護した点において、特色のあるものであつたとすれば、この起訴法定主義の明文化ということも、 きわめてドイツ的色彩の強いものであるとすることができるのである。そして、この明文化にあずかつて力のあつた 人は、シュヴァルツェであつた。彼は、検事局は正義の侍女であり、起訴法定主義はその必然的な帰結であること、 従つて、「大法官は甚だ蹟末なる事には頓著せず」とする命題によつて、便宜主義を庇護するところのフラソスの見解を 正当化しようとする立場には反対せざるを得ないこと、検事に対して公訴に関する 

自由な処分権を認めることは、取りも直さず恣意を認容することであり、これは許されるところでないこと、裁量は、 偶然の事情であるとか主観的気分に依存するものであり、検事の人格と個性とがそれぞれ異るに応じて全く異つてく るものであり、また個々の地方の検事局にょつても異つてくること、便宜主義を採用すると、これを容易に楯にとる ことのできる検事の答責性は弱められ、また上級官庁の統制力が弱められること、便宜性に関する裁量権を検事局の 上級官庁に帰属させざるを得なくなるであろうが、これは恣意を助成するものであること、この恣意は検事局の活動 の根底深く潜む害毒とされているものであること、「便宜性」のもとで、法の前の不平等が、人間性という外装に包 まれて合法性と名付けられるようになるであろうこと、公訴に関する職務の遂行というごとき状況においては、確固 とした不動の規範が第一の要件であり、官吏は右の規範のうちに一箇の安定した支柱と、同時にもろもろの疑惑に対

する難攻不落の防禦を見出すものであること、もし、決定の標準が彼の裁量ということであるならば、右の疑惑は止 むことがないであろうこと、従つて、制定法、常に制定法のうちからのみ、彼は自己の行動の規範をもちきたるべき こと、を理由として、その明文化を強力に推し進めたのであつた。 

(一) 帝国刑事訴訟法の下での学説。

当初、第一五二条第二項の起訴法定主義を採用する規定は、右の沿革か らもわかるように、きわめて厳格に解釈されたのである。すなわち、シュヴァルツェは、『検事局の公訴の提起に関 する規範として起訴法定主義を承認することによつて、長い間、活濃に論議されてきた論争に終止符が打たれた。検 事局に処分権主義または便宜主義を認める立場は、正義の命令にも、その履行に検事局が協力すべき刑事司法の任務 にも一致し難いのであり、また党派性を導き、官庁の廉潔に対して不信を抱かせるに至るものである。(紳)告発され た行為が法律上可罰的であつて、容疑者が充分に疑わしい者であるにも拘らず、個々の事案において、これを訴追す ることが公益に適うものであるかどうか、さらに検討するという検事局の自由は、この起訴法定主義によつて排除さ れるのである』とし、クリースは、『一定の犯罪を行なつた者は、一定の刑罰を科せらるべし、と実体的刑法に関す る諸制定法に規定されている場合、これによつて表現されているのは、その犯罪を犯した者は、誰れでも、さらにま た彼のみが処罰されるのであり、そしてまた彼は自己の所為よりも重く処罰されることがない、ということである。 刑罰法規のうちの個々の法規が処罰を特定の諸条件(例えば告訴の申立を行なうこと、刑事訴追を授権すること)に 依存させ、または刑事訴追をただ許容するものと規定し、これによつて、さらに、原則からの例外を基礎づけている ような場合に、刑罰法規の上述した意義はとくに明瞭に示されるのである。すなわち、原則は例外を通してその意義 を明らかにするのである。 

さらに、この点から、刑事事件の手続について、二重の結論が明らかになる。1. 充分な事実上の根拠の存する場 合には、刑事手続は開始されなければならない。言いかえれば、何等かの、世にいわゆる合目的性を顧慮して刑事手 続が開始されないことがあつてはならないのである。いわゆる起訴法定主義がこれである。2. 刑事手続そのものは 実体的真実を目指す努力によつて支配されるのである。』『起訴法定主義という言葉のもとで理解される基本原則は、 検事局は、充分な事実上の根拠の存する場合に、有責者を処罰するため、公訴を提起すべき義務を負うこと、従つて、 何等かの合目的性を顧慮して公訴を提起しない権限を有しないことである。便宜主義はこの後に挙げた権限を検事局 に与えるものである。従つて、犯罪の訴追一般が国家のために行なわれることが前提とされる。もし、それが被害を 受けた私人に任されているならば、法定主義ということも、便宜主義ということも問題とならないのである。前節の 冒頭で述べたところから、起訴法定主義を承認することが実体的刑罰法規の定言的命令によつて命じられていること が、すでに、推測されるのである。言いかえれば、起訴便宜主義を採用することは実体的刑法を変更することを意味 するのである。すなわち、例えば起訴便宜主義の支配に際して、些細なこと、または取るに足らないことを理由に公 訴の提起を行なわないことが検事局に禁じられていない場合には、これによつて、例えば、窃盗および委託金費消に 関する刑罰規定が変更されることになるのである。これから以後は、もはや、一切の窃盗、一切の委託金費消が第二 四二条および第二四六条によつて例外なく処罰されるというのではなく、些細なそれはもはや処罰されなくなるので ある。しかも、個々の事案が些細であるか否かを決定する者は、もつぱら、検事なのである。裁判所にこの決定を下 す権限は帰属しないのである。ことにこれを理由として無罪を宣告する権限が裁判所には存しないのである。 

ところで、さらに、起訴便宜主義は、些細であることを理由に起訴しない権限のみならず、起訴しないことが検事 の意見によれば合目的であるとする限りにおいて、全く、一般的に、起訴しない権限を検事に与えるものであり、こ のことから判明するのは、この主義を承認するとすれば、一箇の全く一般的な刑罰消滅事由(不適当という刑罰消滅事由)を設けることになり、しかもこの事由の存否を決定するものは検事局に限られ、裁判所はこれを行なうことが できないことになる、ということである』と説き、さらに、ビルクマイヤーは、国家の刑罰権は同時に刑罰義務でも あると考えることによつて、犯罪についての職権的訴追の原理と起訴法定主義とを導き出し、後者について、『国家 は、国家機関の訴追義務を何等かの合目的性の考量に依存させることーいわゆる起訴便宜主義 1 があつてはなら ない、国家は右の訴追義務を、もつぱら刑罰請求権の存在に依存させなければならないのである。何故なら、国家独 自の刑罰義務は、犯罪あるが故に、絶対的な義務であつて、応報的正義という国家目的以外の 何等かの国家目的に応じて測定される義務ではないからである』と論じているのである。 

しかし、このように厳格に解釈された起訴法定主義は、実務上、これを行なうことの困難なものであつた。ビルク マイヤーと同じく国家の刑罰義務ということを説くピンディングが、刑罰の両刃の性質について顧慮し、起訴便宜主 義が刑罰の性質から理論上導き出される可能性を認め、また、起訴法定主義を採用するにあたつても、minima noncuraut praetor の原則を無視してはならないものと説いている点が注目されるのである。次の如くである。いわく、 『1. 刑罰の両刃の性質-犯人に対して一箇の害悪であると同時に国家にとつても一箇の害悪であるものとしての 

…を考慮して、国家は刑事訴追についても、処罰にあたつても、明らかに具体的な刑罰の必要が生じた場合、言い かえれば、具体的事件において、それが刑罰を免れるのを黙つて甘受することは法律の権威を動揺させることになる と考えられる場合に限つて、刑事訴追および処罰の義務を負うものとすることが一方において考えられるのである。 

その場合、言うまでもなく、このように微妙な問題の決定をば刑事訴追を任された官庁に委ねる以外に道は残され ていないであろう。法律の権威を維持するためには公訴の提起が不可欠であると考えられる場合に限つて、右の官庁 は公訴を提起すべきことになるのである。 

このような国家について、論者は、この国家は起訴便宜主義を信奉するものである、と言うのである。便宜主義と いう呼称はこの思想を表現するには甚だ不適当なものであつて、幾多の不当な敵対者を輩出させた。何故なら、考え られる一切の合目的性を顧慮することができるようにすべきであるとするのでは決してなく、単に、法の権威を害す ることなく訴追せずに済ますことができるか、または法の権威を顧慮するならば訴追が必要であるか、という一点に ついて顧慮することができるようにすべきである、と言うものであるからである。 

ノルウェーは起訴便宜主義に賛成したのである。 

起訴便宜主義は、真正の原理であつて、しばしば好んで主張されるように、粗悪な、原理的に矛盾したものではな いのである。何故なら、便宜主義は犯罪の性質からというよりは、むしろ、明らかに現存する刑罰1それ故また刑 罰についての権利の性質から導き出されているからである。 

しかし、そのような国家において否定し難く存在しまたは生起すること、それは、全犯罪領域の処罰が「当為」で あることを告げる刑罰法規と、犯罪行為の一群すべてを顧みることなく度外視する刑事司法との間の矛盾である。そ のような刑罰法規は、この法典第四条の如く「べし」とする代わりに「できる」とすべきであろう。 

2. ところで、当罰的であると宣言された犯罪の中に一卜様に含まれている諸法違反一切の例外なしの耐え難さによ つて国家が隈なく貫ぬかれているならば、国家は犯行の一切の事案において、一様に、刑罰義務、それ故また刑事訴 追義務を負うものであることを宣言するであろう。この場合、その国家はいわゆる起訴法定主義を信奉するものであ り、全く意識的に、刑罰効果の彼の両刃性を無視するのである。

起訴法定主義の支配下にあつては、司法は、刑罰法規の諸要求が一般に可能であると考えられる限り、この要求に 応じるであろう。起訴便宜主義の支配の下では必然的に欠乏するところの同一の重さの事件の同等の取扱いというこ とは、あくまで、正義の自明の要求に合致するのである。他方、起訴法定主義は、必要な法の実証の程度を超えて刑 罰を適用することに容易になりがちであり、また、 minima noncuraut praetor という原則を無視することは、国家 の威信を害するものであり、刑罰の信用を落し、国民を憤激させることがありうるのである』と。 

他方、なかには、起訴法定主義を採用することは全く誤りであるとする見解もないわけではなかつたのである。例 えば、コーラーは、『検事は正義の僕である。しかし可罰的に行なわれた事柄を何から何まで処罰するということが 正義に適うことではないのである、正義が処罰をもつて臨まなければならないのは、このことが国民性および文化の ために必要とされる場合に限られるのである。従つて、ドイツで行なわれている起訴法定主義の制度ほど間違つたも のはないのである』と批判しているのである。 

しかし、コーラーの如き考え方も極く例外的な存在であつて、学説の大勢は、原則として、起訴法定主義を維持す る方向に向つているのである。ただ、例外を漸次認める傾向にあり、また、一部には、起訴法定主義と起訴便宜主義 との対立を解消しようとする考え方も見られるのである。 

(イ) まず、原則として起訴法定主義に賛成し、さらに、特定の法律上の例外を認める考え方をとる者として、例 えばヒヅペルを挙げることができるであろう。彼は次のように説いている。いわく、『弾劾主義は犯罪の捜査と公訴 この点と関連して、検事局は、何時公訴を提起すべき義 

務を負うのであるか、という問題が生じてくるのである。この場合に、原則として、二箇の可能性が対立する。いわ ゆる起訴法定主義と起訴便宜主義とがこれである。起訴法定主義は法律上可罰的な一切の行為について公訴の義務あ りとするものであり、起訴便宜主義は個々の事案において起訴を検事局の裁量に委ねるものである。

ところで、起訴法定主義は訴訟における実体的刑法の成就という課題に適わしいものであるのに反して、起訴 便宜主義が原則として意味するものは、検事局がそれを欲する場合に限つて可罰性が表面に現われるということであ る。この立場がもし無制約に実現されるものとすれば、その帰結として次のことが導かれるであろう。すなわち、検 事局は、訴追を「不適当」と考える場合には、各可罰的行為を処罰から免かれさせることができる、上級官庁の影響 力を受けてそのようにすることも考えられないことではない、いずれにせよ、この態度をとる根拠は世間に知らされ ないのである。これによつて同時に、実務上の取扱いが多様になる危険も発生するであろう。実体的刑法は、このよ うにして、統制のとれない諸例外によつて破られ、これによつて法の適用の正しさに対する不信が生まれ、一般予防 は弱められ、正当な応報の必要は害されることになるのである。さらに、立法者については、充分に考えをめぐらせ ることを怠る誘惑にかられ、検事が必要に応じて制限できることを頼りにして刑罰法規の法文を定めるようになりが ちになるのである。

従つて、一般原則としては、起訴便宜主義は有用ではないのである。法律上の出発点は、起訴法定主義でなけ ればならないのである。実際には、起訴便宜主義の主張者も、明示的にまたは黙示的に、公訴の提起をばそのために 設置された公訴官庁の通常の任務とし、公訴の不提起を特別の諸事由からする例外と考えているのである。後者の点 について、承認すべきことは、無制約の起訴法定主義は、事情によつて、不必要に、行き過ぎることがあり得るとい うことである。その場合、立法者の任務とされるのは、例外が許容さるべき諸事案の一群を明確にし、法律上確定して、検事局が法律上承認された枠内において公訴不提起の際、行動できるようにし、右の枠内で初めて、検事局がさ らに個々の場合に義務的裁量に従つて手続をとることを要するものとすることである。そこで、結論を総括してみる ならば、原則として起訴法定主義、ただし、特定の法律上の諸例外を含む、ということになるであろう。このことは 我が帝国法のたどつた道でもあるのである。結果として、通説も同様であつて、原則として、起訴法定主義に賛成してい るのである』と。 

 以上の考え方に対して、少数説ではあるが、起訴法定主義と起訴便宜主義とは対立するものではないとする 考え方も現われているのである。例えば、ザウアーは次のように説くのである。いわく、『便宜主義は目的論的関心 を有する各法制度の指導思想である、これに反してその思想上の対立物である法定主義は、便宜主義の規範的な反映 を意味するものである』。『起訴便宜主義と起訴法定主義とは、まさに、対立物ではないのであつて、前者は後者の内容で ある。何故なら、制定法は非合目的なものではないからである。そして、すべてこのことは、費用についての利益という 点でのみ妥当するのではなく、わが国の裁判の給付能力の増強のためにも妥当するのである。すなわち、刑事司法の目的 は、「その進行に関して、全体としてもつと顧慮されるとき、そして検事局が些細な訴追を取り除くことによつて刑事訴 追のエネルギーを真にその必要のあるところに集中するとき、無限に達成される」に違いないのである。また同じ事は検 事局のみならず司法警察についてもより高度に妥当するのである。一切の違警罪を告発するということは不可能なことで あるが、司法警察はどれほどその点に気付いているであろうか。それ故、われわれの考えからすれば、法律上の規定の限 界を超えて、処罰にとつて重要でない競合の場合を静かに無視することができるのである。最も重い種類の重罪であると わかつている暴力行為の行為者が、なお、その犯行の際に、刑法第三六七条の違警罪の一所為(ナイフの使用)について 有責であつたかどうかを問題とすべき何物があるであろうか。聡明な検事はとくにその点に向けられた公訴を提起するこ とがないであろう。そしてこのことは、法律の回避でも侵犯でもなく、 

が不可能になるような場合には、刑事訴追を全く行なわないことができるであろう。 

法律の意味に適つているのである。また、若干の時間のうちに確実に行為者の死亡が予期され、その結果、刑の執行 が不可能になるような場合には、刑事訴追を全く行わない事が出来るであろう。 

起訴便宜主義は、この場合、避けることのできない健全な司法の要求であることがわかるのである。この意味 での便宜主義は決して公訴の提起を検事の恣意および気分に依存させるものではなく、かえつて、検事を促して、義 務に則した、また個々のものを顧慮するところの裁量を行なわせ、しかも法律の意味のうちに存する限界内でこれを させるのである。 

『公益、正当な公益の存する場合に限つて、刑事訴追が行なわれるのでなければならないのである』。

『便宜主義、これは 法定主義と対立するものではなく、まさにその目的論的な深化を示すものであり、ーそれは恰かも機械論的倫 理学が目的論的倫理学に一層深い基礎づけを見出したのと同様である・・われわれが既に見てきた通り、法律論の多 彩な領域に属しているのである。「公益」の表現としてそれは法の窮極の原理を意味する。目的原理としてそれはす べての精神科学の最上位の方法論的思想を意味するのである。 

便宜主義に対して提起された幾多の攻撃は、大概、ここで詳細に説明した意味でのこの原理に当つていないのであ る。それらのものは、一部、結果として次のようになつている、すなわち、正義を(詳細に性格づけられていないと ころの)合目的性について顧慮することと対立させ、または全く司法を政策と、また社会的諸努力と対立させている のである。もし論者にして起訴法定主義のうちに、客観的に行なわるべき司法に対する不可欠の保証を見出すのであ るならば、この要求は、制定法の意味を詳細に説明する科学的規則に従つて便宜主義が完成される場合に、この起訴 便宜主義によつても充足されるであろう。その場合には、また、検事に対して他の行政官庁が不当な圧力を加えるであろうというしばしば表明される不安は根拠のないものとなるのである。検事はもつぱら制定法の意思に則して完成 された便宜主義に従うことを要するのであるから、検事は言うまでもなく、また、刑法第三四六条による重罪の責を 負わないで済むのである。何故なら、検事は何人かを「違法に」法定刑から免れさせることを欲しないからである。 そして、論者が便宜主義において、それにも拘らず、裁判の法的安定性と統一性との危殆化を認めるならば、我々の 基本思想は、まさに、具体的事案において実体的正義よりも法的安定性により重点を置くべきところにおいて、法的 安定性に対してその権利を得させるのである。我々はこの問題をその核心において把握することを欲したのである。 そして次に残されている間題は、どこで、どれだけ、かの異論に従えば最高の原理とされなければならないところの 法的安定性を、具体的正義よりも顧慮すべきであるかを調べることである。便宜主義の行なわれる場合に、官庁が党 派性と恣意との疑いを免れるのが困難であることは、時として当つていることがあるであろう。しかし、そのような 疑いを表明するものは、もつぱら、それ自身党派性をもつ出版物またはそのような与論であろう、与論は僅かな判断 力をもつにすぎず、種々に判決の下された事案の差異について何等の感情をも持ち合わせていないのである。さらに、 

確かに、間題となるものは素人の疑いではなく、その疑いの客観的な正当化である。次に、適当な形式が見出せない とか、とくに、「公益」の基準が余りにも曖昧であると思われるからといつて、起訴便宜主義を非難することはでき ないのである・・・この基準が今日すでに立法者によつて私訴事件について承認されそして其処で実務により全く充分に 運用されているにも拘らず。さらに、形式化が困難であるということから、正しいと認められる思想を放棄することは許 されないのである。 

応報説と目的説との刑法上の論争と、起訴法定主義と起訴便宜主義との対立ということは関係のないことである。 応報説の多数の反対者が起訴法定主義を固執している。また他方、ー言うまでもなく、論者が以前には考えること のできたように・・・応報説を信奉することが起訴法定主義の固執を余儀なくするものではないのである。何故なら、 応報ということは、それ自体、目的主義に服するものだからである。国家的応報の必要性は、個々の事案に存在する ところのより高次の国家利益のために和らげられなければならないのである』。『便宜主義は法律をその意味と目的とに従 つて解釈することにほかならないのであつて、その文言およびその形式的・論理的性格に従つてこれを解釈するものでは ないのである』と。 

(二) 現在の学説。

現行ドイッ刑事訴訟法第一五二条第二項も、帝国刑事訴訟法のそれと全く同一の内容の規 定を置いているのである。 

そして、現在のドイッの学説の大勢は、原則として起訴法定主義に賛成し、例外をこれに含めるものとする点で、 結論において、帝国刑事訴訟法の下での通説と一致すると考えられるのである。例えば、ケルンは、起訴法定主義の 意味は『各犯罪行為が誰れ彼れの区別なく訴追され、処罰されることに対する保証を提供する点にある。起訴法定主 義は一様の、恣意から自由な刑事司法の最も重要な保証であり、従つて正しい司法に対する国民の信頼の不可欠な前 提となつているのである。 

起訴法定主義に対立するものは起訴便宜主義である。もしこの原則によるとするならば、合目的性(=便宜性)の 諸根拠から、例えば費用がかさむとか、特定の被告人の占める高い地位を顧慮してであるとか、公のスキャンダルを 回避するためであるとかを理由として、裁量により刑事訴追を行なわない権限が検事局に与えられることになるであ ろう』。『公訴の強制は例外なしにこれを実施することはできないのである。法律上規制された諸条件のもとでは、公 訴の提起は強行的に規定されてはいないのである』とし、 ヘンケルは、『現行刑事手続法は訴追強制の原則を信奉 しているのである(起訴法定主義)

訴追強制の支配は法治国家の主要な基礎の一つを確保するものである。これを保持することは刑事司法活動の客観 性と不惑性とを保証するものである。その取扱いの合目的性の問題をも、公益の観点から例外なく検討し、否定的な 場合には個々の事案における刑事訴追を「不適当(inopportuun)」であるとして行なわないことが手続機関に任され るとするならば、第三者の側からする、刑事訴追活動に対する事実に即さない影響力が人目をひくようになる危険が 生じてくるであろうし、また、そのような影響力が効果を納める憂いのない場合であつても、確かに、影響を及ぼす 可能性あるということが、すでに、刑事司法の無条件の客観性に対する信頼を失墜させることに力を借すことにな るのである。それ故、「訴追を決定するものは万人に平等な法律であつて、個人的に異なる裁量ではない」(エクスナー) ようにするために配慮しなければならないのである。従つて、訴追強制は法の適用の平等を保証するものである。 訴追強制は、誰れ彼れの区別なく、またあるいは行なわれるかもしれない第三者たる官庁の反対の要求を顧慮するこ となく処置すべし、とする検事局に対する一般的指示を含むものである。 

刑事司法は、国民の生活秩序の安定と維持、それ故、全体の利益に奉仕するものである。もし刑事司法が刑事訴追 の思想にあらゆる犠牲を払つて追従するならば、言いかえると完壁な訴追強制を実現するとするならば、このような 窮極の目標点を見失つてしまうことであろう。そこでこの原則は合目的性の考量による一定の緩和を必要とするので ある。例外の事案においては、硬直した訴追強制は破らるべきであり、そして個々の事案についての刑事訴追が公益 を実体とするものであるかどうかに関する附加的検討が課せらるべきである。従つて局限された範囲内で、検事局が 公益の存在を否定する場合には訴追は中止さるべきであるという意味において、起訴便宜主義の思想を入れる余地が あるのである。 

このような起訴法定主義の緩和が小規模にまたは大規模に許容さるべきかという問題は、きわめて強く、時代的に 制約された諸要求によつて左右されるのであり、その結果、この分野で、帝国刑事訴訟法の施行以後、著しい改正が 行なわれてきているのである。しかし、いずれにせよ、この場合に、訴追強制の例外を広範囲に認めるべきか、これ を小範囲にとどめるべきかということが間題となるにすぎない点を強調しておかなければならないのである。そこで、 

注意すべきことは、例外の場合を除いては、労働力、時間、そして費用の、きわめて程度の高い消耗を根拠としたり、 公共生活上の人格について外聞を悪くすることが予期されることを根拠として、またはその他の根拠からして、刑事 手続が「不適当」であることを理由に訴追を断念することは決して検事に許されていない点である』と説き、シュ ミ ッ ト は 、『 実 体 法 的 に は 国 家 の 犯 罪 訴 追 の 義 務 は 、 そ の 限 界 お よ び 制 約 を 含 め て 、 国 法 上 の 司 法 承 諾 義 務 

Justiz-gewährngsptlicht)に根ざすものである。言うまでもなく、この義務から、通常の事件について、そのために 設置されている官庁の訴追義務が導き出されなければならないのである。しかし、正義とも調和することのできる、あく まで注意すべきところの国家の諸利益が存在しうるということも、疑問の余地のないところである』としているのである。 

三 法律上の例外 

一八七七年の刑事訴訟法に起訴法定主義の原則が規定された当時、法律上、例外の許された範囲はきわめて僅かな ものであつた。すなわち、私訴の方法で訴追できる侮辱罪および傷害罪(帝国刑事訴訟法第四一六条)、外国で行な われた重罪(刑法第四二条)、および犯罪物件に対する刑事手続についてのみ許されていた。時の経過とともに、次 第に、この原則は破られていつた。とくに、一九二四年のエミンゲルの司法改革では比較的重要でない刑事事件につ いて、また一九二九年には犯人引渡法による犯人引渡について、一九三一年一月六日の緊急命令により民事法上の困 難な先決問題を含む事件について、この原則が破られたのであつた。

国家社会主義の支配のもとでは、例外の範囲は強喝の犠牲者(一九三五年)や一切の親告罪(一九四二年)に及び、 また一九四二年には、公訴強制の運用に関する裁判官の統制が除去された。そしてついに、一九四四年には、第四次 簡易化令により一時、訴追強制(起訴法定主義)が全く除去されたのであつた。 

今日において、起訴法定主義は再び妥当しており、一九四二年に廃止された法定主義の諸担保も再び採用され、一 方、拡張された諸例外は、親告罪に関する例外を含めて、存続しているのが現状である。起訴法定主義の例外が立法 の上で漸次拡大されてきた根拠について、ヘンケルは、『この変遷過程は、国家・社会の発展と、これと結合した実 体的刑法の拡大とにその根拠を有するものである。帝国刑事訴訟法の施行の際に存在した国家は、その任務を法によ る保護を行なうことに限定されていた。この国家に相応しいものは、刑法においては明確に展望できる範囲の犯 罪事実であり、これらの犯罪事実の大多数は刑法典に総括されていたのである。二〇世紀に国家制度が行政国家および福 祉国家へと発展するにつれて、絶えず行なわれる、殆んど無限に近い国家の任務の拡大と結合したものは、刑罰威嚇 の途方もない増大であつた。これらの刑罰威嚇は国家の統治活動に保護を与え、これを強調するために採用されるも のである。このようにして、なかでも、行政と経済の領域で、その量において殆んど展望し難い「特別刑法」が誕生 し、これを論者は刑法に組み入れたのである。ところで、まさにこの領域で、すでに多数にのぼる抵触と、その発現 形態の多面性とからみて、非本質的なものを本質的なものから分離し、そして些細な事件による刑事事件の洪水を回 避しなければならなかつたので、起訴法定主義により刑事訴追官庁を明確に義務的に拘束する代わりに、一層広範囲 にわたつて、刑事訴追に関し便宜的尺度を承認する必要が生じたのである。近き将来における最も重要な課題の一つ としての刑事刑法からの単なる秩序違反の排除、およびこれによつて期待される真の刑事上の不法の領域への刑事司 法の限定とは、起訴法定主義の効力を再び確立することであろう、たとえ当初の厳格性におけるその再建を考慮に入 れることができず、依然として「便宜主義」の思想による相当の例外が不可避であるにしても』と説き、さらにシュ ミットはこの点を詳述して、『刑事訴訟法とともに実施された第一五二条第二項の起訴法定主義は、一八七五年一〇 月一日以降に経過した数十年の時の流れとともに、その効果をますます弱める必要、言いかえれば、起訴便宜主義に 対して附与する意義を、漸次、増大させる必要を明らかにしてきたという点で、興味のある歴史的発展を遂げたのである。 

この発展は、我が国の社会状態の一般史と関係のあるものであり、さらに、実体刑法の発展とも大いに関係のある ものである。一八七九年一〇月一日に刑事訴訟法が実施されたとき、帝国刑法典は、なお、実体刑法の法典を表わ していたのである。すなわち、可罰的行為の大部分は刑法典のうちに含まれていて、刑法に関する特別法の数はきわめ て僅かなものであつた。しかし、その後、この点について急激な変化が起つたのである。刑法に関する特別立法は殆 んど展望不可能なほどの範囲にわたつて行なわれ、ある程度まで、一切の分野に及んだのである。このことは、一九 世紀の法保護国家から二〇世紀の行政国家および福祉国家へという我が国の国内的・社会的発展の、ある意味では避 けられない附随的な現象であつた。ひるがえつて、もし刑法に関する特別立法のこのような発展を理性的軌道に乗せ ることができたならば、論者は、学問的に提起され、基礎づけられたところの、刑事刑法の領域から行政上の不法を 分離せよとする要求を理解し、且つこれに従つていたであろう。このことが行なわれなかつたということは、我国の 刑法にとつて、はなはだ遺憾なことであつた。立法者が国家の命令を強調する必要のある場合には、常に、立法者は 刑法の命題という形をとつてこれを行なつたのである。このことによつて、些細な簡易犯罪の数は測り知れない数に 

達した。どれほどこのことが刑罰の道義的理念に害を及ぼしたかということは、ここでは、これ以上探究しないこと にしよう。しかし、訴追官庁の労働負担は圧倒的な量のものとなり、この場合、雑多な填末な事物が重要な真の刑事 事件の精力的訴追を害する危険を生じさせるに違いないことは火をみるよりも明らかであつた。第一次世界大戦以後、

この点における諸事情はますます疑問のあるものとなつたのである。すなわち経済生活に対して加えられる一層の国 家的規制は、刑事司法に重い負担をかける沢山の経済事犯をかもし出した。その後、比較的早期にこれらの経済事犯 が再び姿を消したくとも、刑法に関する特別法の発展はついに休止ということを知らなかつたのである。さらに、国 家社会主義のもとで、漸次、始められ、さらにますます強化された全生活の国家化、ことに経済の国営化は、この発 展が絶頂に達し、或る程度、宙返りするように導いたのである。すなわち、まさに、経済刑法の領域において、司法 と行政との欄柵が引き裂かれるに至つたのである。 

一九四五年以後になると、万事は昔し通りに帰つた。一九四九年七月二六日の経済刑法は、初めて、経済刑法の 

領域において法治国の状態を回復させた。司法と行政との機能領域が厳格に分離された。 

一九四九年の経済刑法が刑法の領域から秩序違反を原理的に法学上分離する最初の試みを行なう以前において、先 に叙述した発展は、喜貝して実施することのできなくなつた起訴法定主義が、起訴便宜主義による制限を受けたこと によつて、手続法へ影響を及ぼした。刑事訴訟法第一五三条乃至第一五四条bは簡易事務およびドイツ刑事司法の見 地に立つて、刑法上解決をはかることに注目すべき利益の存しない事務から、訴追官庁および裁判所が解放されるよ 

うに配慮している。このことがいかに欠くことのできないものであつても、一切の単なる行政上の不法、秩序違反か ら 刑 事 刑 法 を 刑 法 上 の 犯 罪 事 実 へ 一 般 的 に 純 化 す る こ と が 行 なわ れ な か つ た 点 で は、 刑 

事訴訟 法 ( 第 一五三条乃至第一五四条 b で行われた解決は中途半端に終わっているのである。このような一般的純化に よっても厳格な起訴法定主義に戻ることのできないことは疑問の余地のないところである。しかし、それではどの程度まで、起訴法定 主義は、 なお、破らざるウィーン愛野か、と言うことは、ここで議論する事の出来無い一個の問題である』としているのである。 

四 結 語 

以上に見られる如く、ドイッでは、帝国刑事訴訟法の実施以後、八○有余年の間、起訴法定主義は一貫して維持さ れ、学説の大勢も原則としてこれを支持してきているのである。その間、時の流れとともに法律上の例外は漸次その 数を増してきたのであるが、最近では、その例外とされるものの内容に再検討を加えて、刑法実体法を純化し、これ によつて再び起訴法定主義の意義を強調しようとしているかに見受けられるのである。嘗つて、リストは、刑事政策 の諸要求の一つとして、『わが国の今日の立法は刑罰という犯罪闘争の手段をおびただしく使用している。訴訟法上 の法命題(起訴法定主義の破開(Durchbrechhung)としてであれ、実体法上の規則(侵害が些細である場合の刑の 免除)としてであれ、(minima non curat praetor)という古き命題が再び採用されてしかるべきではないかどうか、 これを熟慮すべきものと考えられる』としたのであった。起訴便宜主義の排除ではなく、これに例外を認めるべきで あるとしている点が注目されるのである。また、ザウアーの説も、起訴法定主義の規定をその意味と目的とに従つて 解釈すべきであるとしているのである。起訴法定主義を原則とすることは、ドイツの国民の法感情に深く根ざしてい る点を看逃すことができないのである。一国の国民性ということを思わざるを得ないのである。